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  • 執筆者の写真林田医療裁判

文京七中・早川労災裁判の東京地裁判決

更新日:2022年1月19日

#林田医療裁判 #中野相続裁判 が相互支援する文京七中・早川労災裁判(平成30年(行ウ)第427号公務外認定処分取消請求事件)の判決が2022年1月13日(木)午後2時から709号法廷で出された。東京地裁民事36部(三木素子裁判長)は請求を棄却した。傍聴席からは不当判決との声が出た。


早川さん側は前もって裁判所に判決理由の要旨の読み上げを求めていたが、裁判長は「準備ができていない」として読み上げなかった。裁判所は判決日を2021年12月9日から延期していた。裁判所の都合で延期したにもかかわらず、準備ができていないとは準備をするつもりがないと評価できるのではないか。


判決は早川さんが頸肩腕障害を発症した事実は認めた。しかし、頸肩腕障害が公務に起因して生じたものは認めなかった。公務と発症の因果関係を否定するが、何の原因で発症したかは明らかにしない。判決は、短期間に上肢に集中的に負担がかかったとは言えないと言うが、板書が中心の昭和の教育の実態を理解していないだろう。


中学校の校長が早川さんの公災認定請求書を放置したことが問題である。ところが、判決は請求書放置を文京区の公権力の行使とし、公務災害補償基金の問題ではないとした。公務員得意の縦割り行政による責任回避である。


判決は早川さんが副担任だから負荷が少ないと指摘する。しかし、早川さんは担任でない分、授業のコマ数は多かった。担任と副担任は役割の違いであり、上下関係ではない。裁判官は公務員のゼネラリスト志向で、スペシャリストの難しさを理解していないのではないか。


教員の労働問題では埼玉県教員超過勤務訴訟さいたま地裁判決が話題になった。これは中野相続裁判(平成30年(ワ)第552号・共有物分割請求事件、平成30年(ワ)第2659号・共有物分割請求反訴事件)と同じ裁判官(石垣陽介裁判長、高橋祐子裁判官、牧野一成裁判官)、法廷である。埼玉県教員超過勤務訴訟では教員が授業以外の雑務に追われている実態が明らかになった。これは大きな問題であるが、早川労災裁判の東京地裁判決は逆に都合よく影響を受けて、授業に集中した早川さんの負担を軽視したのではないか。


判決後に報告集会を開催した。報告集会では裁判傍聴者から「早川労災裁判は証拠を持つ側が逃げまくって、ザマー見ろと開き直った事件」との感想が寄せられた。これは中野相続裁判とも重なる。中野相続裁判では遺産を占有する側が内容を明らかにしていない。


報告集会では参加者からの活動紹介もなされた。林田医療裁判を考える会では立正佼成会附属佼成病院への公開質問状と中野相続裁判さいたま地裁の当事者尋問を案内した。

日時:2022年1月28日(金)午後1時30分

場所:さいたま地裁C棟105号法廷

事件番号:平成30年(ワ)第552号・共有物分割請求事件、平成30年(ワ)第2659号・共有物分割請求反訴事件

裁判所:石垣陽介裁判長、高橋祐子裁判官、牧野一成裁判官

早川さんと代理人(和久田修弁護士、萩尾健太弁護士、坪田優弁護士、土田元哉弁護士)は厚生労働省記者クラブで記者会見した。


早川労災裁判は数学教師が公務災害認定を求めた訴訟である。原告の早川さんは東京都の中学校教員であった。板書などで頚肩腕障害を発症し、公務災害を申請しようとしたが、学校側から申請用紙の提供拒否や申請の受付拒否を繰り返された。


「文京区立第九中の佐藤一男校長に「申請用紙をください」と申し出たのは1986年9月。校長は、「そんなことは知りません!」と申請を妨害。さらに、区と都に請求しても拒否され、労働組合でもらって提出すると、今度は受取拒否」(「都教委は公災認定請求書の隠匿の責任を取れ!早川さんの健康を返せ!」『10.29東京総行動NEWS』2021年8月29日、3頁)


早川労災裁判の背景には公務員の労災の民間からの乖離がある。公務員の労災は公務災害(公災)と呼ばれ、民間の労災とは別制度になっている。審査を加害者側の東京都の職員が実施するため、公正な審査からは程遠い。


公務災害を審査する公務災害補償基金は職場実態を調査もせずに「同じ職場に(頸肩腕障害の)患者が居ないから、公災ではない」として早川さんの頸肩腕障害を「業務外」とした。結論。同じ職場なら同じ労働実態というのは職種の多様性を無視している。中学校教員の業務は一人一人異なる。体育教員と数学教員が同じ仕事でない。


早川労災裁判では裁判の名称を公務災害ではなく、早川「労災」裁判と民間労働者と同じ労災の語を用いている。公務員の特殊性を持ち出さず、民間労働者の普遍性を持って対峙している。


早川労災裁判には公務災害認定請求書握り潰し訴訟という前段がある。複数の裁判が行われる点は林田医療裁判・中野相続裁判と重なる。林田医療裁判・中野相続裁判は患者の権利、早川労災裁判は労働者の権利向上に資するものである。中野相続裁判さいたま地裁第18回期日(第17回口頭弁論)の報告集会では早川労災裁判第12回期日が案内された。


公務災害認定請求書握り潰し訴訟では以下を請求した。

・地方公務員災害補償基金に対して、請求書を都教委に受理させなかった不作為の違法確認

・都教委に対して、請求書の受理と基金への送付義務付け

・基金と東京都に対して、請求書未送付の不作為の損害賠償


この裁判は2006年に提起し、2012年に東京都に慰謝料等50万円の支払いを命じる判決が確定した。早川さんが提出した申請書は校長室のロッカーに放置されていることが判明した。裁判では基金の責任は認められなかったが、基金の運用が変更された。


「基金本部が全国に「事務連絡」を発して「災害補償の手引」が一部改正され、所属部局長が災害発生状況の把握が困難な場合は、証明困難である旨を証明欄に記載して提出すること、長期間証明がなされない場合には被災職員等から基金支部長に対し直接認定請求がなされることが明記されるようになった。これは重大な実務の変更であり、原告と組合、支援の仲間で勝ち取った誇るべき画期的成果である」(一審原告 早川由紀子、全国一般東京労組文京七中分会、早川由紀子さんの不当免職撤回を支援する会、公務災害認定請求書握りつぶし訴訟弁護団「公務災害認定請求書握り潰し訴訟 最高裁での対東京都勝利判決確定声明」2012年3月15日)


往々にして日本では労働問題に対して部署内の直接的なコミュニケーション活性化で何とかしようとする昭和的な解決策が採られる傾向がある。たとえば昭和の精神論を振りかざす上司に困っているとの相談がある。「60代後半の上司がいかにも“昭和の考え方”でついていけません。精神論を振りかざし、「やるしかないだろう」が口癖です。あまりの激務で部下が一人体調を崩してしまったのですが、人員の補充がないまま半年がたち、残ったメンバーの心身も限界です」


この相談に対して菅義偉首相は「コミュニケーション不足により上司とあなたの間に認識のギャップや軋轢が生じているのだとすれば、双方の心がけと行動によって、それを解消することが先決です」と答えた(『第99代総理大臣 菅義偉の人生相談』プレジデント社、2020年)。これ自体が昭和のコミュニケーション至上主義になる。「メンバーの心身も限界」という深刻な相談にはピント外れになる。


早川労災裁判の公務災害認定請求書握り潰し訴訟では部署の職制を通さずに直接請求できるようにした。21世紀的な解決策である。


公務災害認定請求書握り潰し訴訟の後に公務災害認定を求める訴訟を起こした。第8回期日は2020年9月24日午前10時から東京地裁709号法廷で行われた。早川労災裁判も中野相続裁判と同じく新型コロナウイルス感染症によって期日が延期していた。


第10回期日は2021年1月28日午後4時30分から東京地裁709号法廷で行われた。中野相続裁判さいたま地裁第17回口頭弁論と異なり、緊急事態宣言下でも開催された。早川さん側は頸肩腕障害発症原因のビデオを証拠として申請した。これは実際に板書する姿を撮影したビデオであり、板書が体に負担がかかることを示すものである。第11回期日は2021年3月11日午後4時から東京地裁709号法廷で行われた。


第12回期日には元同僚の証人尋問と原告本人尋問が行われた。

日時:2021年6月10日午後1時30分から4時

場所:東京地裁709号法廷

発病職場である羽田中学校の同僚の証言は「いちばん面白かった」の感想が寄せられた。当時の中学校の荒れた実態が証言された。ヤンキーが教師に暴力をふるっていた。教師の負担になっていた。


原告の本人尋問60分は、発病・治療の在職期間21年に対して、あまりにも短い証言時間であった。裁判長から「短く、短く」と急き立てられた。発病の因果関係に必要と思う部分も制限され、残念であった。


発病が1974年と約半世紀前の出来事である。被告基金や裁判所の質問に原告は「ごめんなさい、思い出すのに時間がかかります」と答える場面も。労災申請が握りつぶされた結果、過去の問題を取り上げることになった。原告代理人から「最後に言いたいことは」と促され、「私の人生をめちゃくちゃにされたことが非常に悔しい。二度とこのようなことが起きない判決をお願いします。」と。


早川労災裁判は第13回期日の口頭弁論で結審した。

日時:2021年9月13日午後4時

場所:東京地裁631号法廷


早川さんが意見陳述し、ブラックな職場実態を話した。「診断書に「病状の悪化が予想されるので、職場の変更は禁ずる」とあるにも関わらず、強制配置を繰り返しました。1986年、1987年と2年続けて強制配置され、3年後には再再度配置換えで、とうとう寝たきりにまで悪化して、病欠に入ったら、辞めさせられた」


口頭弁論終了後は「まとめの会」を開催した。林田医療裁判を考える会からも傍聴に参加した。中野相続裁判さいたま地裁第20回期日(第19回口頭弁論)を案内した。



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