小松美彦、市野川容孝、堀江宗正編著『〈反延命〉主義の時代 安楽死・透析中止・トリアージ』は反延命主義を批判的に論述した書籍である。命が軽視される風潮を批判する生命倫理・死生学・社会思想史などの研究者らの書籍。
反延命主義は人生の最終段階において無益な延命治療を行うべきではないとする風潮である。医療において救命や延命は当然行うべき大原則である。ところが、医療の現場で真逆のことが行われる傾向がある。死なせる医療になっている。
本書の問題提起は林田医療裁判(平成26年(ワ)第25447号損害賠償請求事件、平成28年(ネ)第5668号損害賠償請求控訴事件)から同意できる。林田医療裁判では患者の長男が患者の延命につながる治療を全て拒否した。患者本人の意思の推定も他の家族への確認もなされなかった。
反延命主義の理由は様々なものがある。社会保障の財源や医療資源の不足を根拠とする立場。日本人の死生観から医療技術で活かすのではなく、自然に死ぬことを是とする立場。「生産性」のない生の価値を否定する立場。改善の見込みのない苦痛を長く味わわせることの非倫理性を説く立場などである。
林田医療裁判の立場からすれば患者個人ではなく、社会全体や他人の意思で死なせる医療を正当化する主張は否定できる。社会保障の財源や医療資源の不足、「生産性」のない生の価値の否定は患者個人ではなく、社会全体を優先する全体主義である。これらはナチスの優性思想と変わらない。
また、日本人の死生観、改善の見込みのない苦痛を長く味わわせることの非倫理性なども患者本人ではなく、他人の価値観の押し付けは否定できる。患者の長男が改善の見込みのない苦痛を長く味わわせることの非倫理性という思想をもって、独断で延命につながる治療を拒否するならば、患者本人にとって恐怖でしかない。
また、死なせた方が楽というが、本当に患者にとって楽なのかは疑問である。死なせたい側にとって手間がかからず楽なだけではないか。射水市民病院で起きた呼吸器外し事件後に麻野井英次院長が看護師たちに以下のように語っている。
「呼吸器を外すことがいかに残酷な行為であるか。人間息ができないことほど苦しい状況はない。水におぼれる状態を想像してほしい。せめて心臓が動いている間くらい、酸素を送ってあげよう。生命活動を支えるもっとも重要な物質である酸素だけは、命のつきるまでは送り続けよう。あとわずかの時間を、出来る限り患者の尊厳を保つよう心を込めてケアしながら、大切に見守ろう。命の灯が自然に消えるのを一緒に待とうと家族を説得してほしい。どうせ死ぬ、助からない、だからといって私たちが死ぬ時間を決めてよいのでしょうか」(中島みち『「尊厳死」に尊厳はあるか、ある呼吸器外し事件から』岩波書店、2007年、119頁)。
社会全体や他者の価値観の押し付けで死なせる医療とすることは否定する。それでは患者本人が真摯に望んだ場合にどうするか問題になる。「人間息ができないことほど苦しい状況はない」とあるように死なせる医療が患者にとって安逸なものではないということを十分に理解した上で、死を望み、それを叶えることの是非となる。誰も死ぬ直前の苦しみを語れないため、これは仮定の思考実験に近いものになる。
とはいえ今日では安楽死や尊厳死を主張する立場の多くは個人の選択を少なくとも建前は根拠としている。まともな論者ならば、自分達の主張がナチスの優性思想の継承者と言うことはないだろう。悪いことに反延命主義を批判する側は伝統的に「どれほど辛く苦しくても頑張って生きることは素晴らしい」「生きることが闘いだ」という姿勢がある。もし反延命主義を批判する側の論理が、そのようなものならば、そちらの方が価値観の押し付けになるだろう。
この問題について本書の指摘は参考になる。個人主義の立場でも、命と生き方という二つの要素がある。命よりも生き方を重視する思想を持っていると、「善い生き方」を押し付け、「善い生き方」ができない人の死を正当化する傾向になるとする。これは個人の選択に立脚すると主張する反延命主義も、「善い生き方」ができない人の延命を否定するという点で他者の価値観の押し付けになることを示している。
本書のサブタイトルは当初『透析中止・人生会議・パンデミック』であった。本書の出版記念シンポジウムは「『<反延命>主義の時代 透析中止・人生会議・パンデミック』の出版にあわせて」であった。『透析中止・人生会議・パンデミック』がシンポジウム企画時点のサブタイトルであった。最終的なサブタイトルは『安楽死・透析中止・トリアージ』となった。
人生会議の代わりに安楽死になっている。問題がより直接的になっている。厚生労働省は人生会議を「もしものときのために、あなたが望む医療やケアについて前もって考え、家族等や医療・ケアチームと繰り返し話し合い、共有する取組」と説明する。この人生会議が安楽死の方向に誘導されてしまうものという懸念がある。
人生会議も反延命主義の一翼を担うものと批判される。しかし、現実はもっと深刻である。林田医療裁判では人生会議が想定する意思決定プロセスを行わず、患者の長男が延命につながる治療を全て拒否した。人生会議を警戒する前に、医療の現実は人生会議のプロセスも経ないで死なせてしまう実態がある。
パンデミックの代わりにトリアージが入っている。ここには東京都杉並区の田中良区長のトリアージ発言も影響しているだろう。杉並区は2020年4月に新型コロナウイルス対策補正予算を出して注目された。しかし、その内実は佼成病院など既存病院の損失補填の意味合いがあった(林田力「杉並区が新型コロナウイルス対策で補正予算案」ALIS 2020年4月19日)。税金が投入されたことで佼成病院は公的性格を有し、これまで以上に公正なプロセスや説明責任、情報公開が求められる立場になったことを自覚する必要がある。
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