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執筆者の写真林田医療裁判

茶道と禅宗

更新日:3月24日

#中野相続裁判 #さいたま地裁 の長女の陳述書では茶道と禅宗の関係も議論している。

次回23回期日は、2022年4月22日(金)11時から、さいたま地裁C棟 105法廷。

Eldest daughter discusses relationship between tea ceremony and Zen Buddhism in Nakano inheritance trial at the Saitama District Court. The tea ceremony and Zen Buddhism are closely related.


茶道と禅宗は関係が深い。臨済宗の開祖の栄西禅師が中国から日本に茶をもたらした。茶の湯の祖の村田珠光は、禅僧一休宗純に参禅して圜悟の墨跡をもらった。

古田織部は、ひょうげものの(ひん曲った歪な)茶碗を好んだが、これも「禅の思想から生れた」との指摘がある(熊田喜三男「茶の湯史と茶の湯茶碗 美濃焼の茶陶を例として」名古屋外国語大学現代国際学部紀要第一一号、二〇一五年、六一頁)。


茶道と禅宗の関係を示す言葉として以下がある。

千利休「茶の湯は、第一仏法を以て修行得道する事なり」(「南方禄」)

山上宗二(利休の高弟)「茶の湯は禅宗より出でたるに依って僧の行を専らにする也。珠光、紹鴎も皆な禅宗也」(「山上宗二記」)

千宗旦「茶禅同一味」

「茶事は禅道を宗とする事」(「禅茶録」)

武野紹鴎の遺偈には「料知す、茶味、禅味と同じことを」とある。

現代でも『主客一如 禅と茶 無からの発想』(近藤道生、尾関宗園、尾関紹保著、金融財政事情研究会、一九九五年)という書籍が出版されている。著者の一人・尾関宗園は大徳寺大仙院の住職である。


禅寺の中でも茶道は大徳寺と関係が深い。京都の臨済宗の寺院には寺の特徴から名づけられた愛称がある。妙心寺「そろばん面」、相国寺「声明づら」、東福寺「伽藍づら」、建仁寺「学問づら」、妙心寺「算盤づら」、大徳寺「茶づら」と呼ばれる(筒井紘一『茶人と名器』主婦の友社、一九八九年、九四頁)。


大徳寺は赤松則村(円心)の援助を受けて大燈国師(宗峰妙超)が京都紫野に開山した。大徳寺は五山十刹のような室町幕府の庇護と統制下にあった禅林と異なり、林下と称し、在野の民間感覚を有していた。


大徳寺では最初に俗名とは別の名前である諱(いみな)を与えられる。これは死してからの名前である戒名となる。長い修行を経て大悟した者には師より、その人の徳や人格に添うように名付けられた称号の道号が与えられる。大燈国師の道号は宗峰で、法諱は妙超である。


大徳寺に学んだ千与四郎は道号を利休、法諱を宗易とする。千利休と知られている人物である。宗は大本、根本の意味があり、宗易に連なる茶の湯者に「宗」の字をつけるようになっている。茶道家元の三千家(表千家・裏千家・武者小路千家)の墓所は大徳寺の聚光院にある。


利休没後に天下一の茶道になった古田織部は大徳寺に参禅し、大徳寺百十一世春屋宗園から金甫宗屋の道号と法諱を授かった。織部に師事した武将茶人の上田重安も大徳寺に参禅し、春屋宗園から竹隠宗箇の道号と法諱を授かった。上田宗箇として知られている。


千利休切腹の直接の理由も大徳寺が関係していた。大徳寺三門(山門)の利休像である。大徳寺は応仁で多くの建物が焼失した。利休は三門の再建に尽力し、天正一七年(一五八九年)に三門の楼閣である金毛閣が完成した。大徳寺は利休への謝意を示すために金毛閣に利休の等身の木造を安置した。これが問題視された。参詣するために誰もがくぐる門の上に雪駄履きの像を立てることを非礼と糾弾された。


三門事件自体は利休を陥れるための言いがかりに過ぎないが、大徳寺という点は重要である。大徳寺一一七世の古渓宗陳は、堺の南宗寺から大徳寺の住持になった。利休の知己である。古渓は秀吉が信長の葬儀を行った際に導師を務め、信長の菩提寺の総見院の開祖になった。


古渓は前田玄以や石田三成と対立して、天正一六年(一五八八年)に博多に流罪になった。後に許されて大徳寺に戻るが奉行衆との対立は残った。利休切腹も、この延長線上にある。この場合、石田三成が黒幕とみられることが多いが、豊臣政権で寺社関係の職務を担当した前田玄以のセクショナリズムの対立があった。


臨済宗大徳寺派の関東における中心的な寺院が圓満山廣徳寺(広徳寺)である。臨済宗大徳寺派の関東への伝播は戦国時代の後北条氏の発展と重なる。後北条氏の二代目の北条氏綱は大徳寺から以天宗清を招き、箱根湯本に早雲寺を建立した。広徳寺は早雲寺の末寺として小田原で建立された。豊臣秀吉の小田原征伐で後北条氏は滅亡し、広徳寺も焼失した。


その後に関東の大名になった徳川家康は天正一八年(一五九〇年)に江戸の神田昌平橋に寺域を寄進して広徳寺を再建した。広徳寺は寛永一二年(一六三五年)に下谷に移転した。加賀藩前田家、会津藩主松平家、柏原藩織田家、阿波藩蜂須賀家ら多くの大名の檀家となり、江戸屈指の寺院になった。大田南畝(蜀山人)の地口に「おそれ入谷の鬼子母神、びっくり下谷の広徳寺」がある。諸大名を檀家にして敷地面積二万坪、その広大さで驚かせた。


広徳寺は台東区より敷地として求められ、練馬区に移転した。その遺跡は廣徳禅寺遺跡として、国史跡の指定されている。石碑には住職の福富雪底の詠んだ句が刻まれている。福富雪底は昭和三六年(一九六一年)に第三〇代住職になり、昭和五八年(一九八三年)に大徳寺第一四代管長になった。関東で茶道を学ぼうとする人が廣徳寺で修行することは自然なことである。


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