公立福生病院事件を考える連絡会が2021年2月13日にミニ勉強会「人工透析と反延命主義」をZoom開催した。
質疑応答で最も議論になった点は、希死念慮についてである。堀江教授は、日本人の意識には希死念慮と病苦自殺に相関があり、それが延命拒否や安楽死の同意のベースになっていると指摘した。希死念慮は「これまでの人生の中で自殺したいと思ったことがある」、病苦自殺は「病気を苦にした人が自殺するのは理解できる」への肯定回答である。死にたいという気持ちを持ったことがあるほど、病苦が著しければ自殺は止むを得ないとする傾向にある。
これに対して希死念慮があるから「重い病気なら自殺しても構わない」となるとの論理に違和感を持つ意見が相次いだ。誰でも希死念慮を持つものではないかと。堀江教授の指摘はアンケート結果の相関という事実に対するもので、それを間違ってると主張するならば統計の誤りの話になる。
とはいえ、希死念慮を持つこと自体は悪いことではないという認識があることは健全である。「どんなに辛くても頑張って生きなければならない」というような価値観の押し付けの方が息苦しい。そこには昭和の精神論根性論の古さを感じる。今やJ-POPでも飛び降り自殺を「精一杯勇気を振り絞って彼女は空を飛んだ」と歌われている(あいみょん『生きていたんだよな』)。
また、本人が死にたいと思っていることと医療者が死なせてよいということは異なるとの意見も出た。これもその通りであるが、死なせるという行為は作為に限定されないということを強調したい。反延命主義を学術的に分析するならば80年代・90年代の安楽死・尊厳死議論が出発点になり、そこでは人工呼吸器を外すなどの積極的な行為が問題となった。このために批判する側も、そこに注目しがちである。京都ALS患者嘱託殺人事件が強く批判されたことも死なせる作為への強い忌避感がある。
死なせる作為に強い忌避感を持つことは良いが、それが逆に不作為への鈍感になるならば問題である。反延命主義の側に京都ALS患者嘱託殺人事件の実行医師のような積極的な主張はあるが、アウトロー的な存在であり、医療現場では責任回避がより巧妙化している。安楽死や尊厳死と言わず、治療差し控えと不作為で説明する。公立福生病院の透析中止事件も病院側の論理は透析非導入となる。これは公務員的な責任回避の論理とマッチしており、こちらの方が反延命主義の現実の脅威になるだろう。
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