公立福生病院事件を考える連絡会が2021年2月13日にミニ勉強会「人工透析と反延命主義」をZoom開催した。死生学者の堀江宗正・東京大学大学院教授が話した。延命治療を嫌悪し、差し控え・中止を進める立場を反延命主義と定義した。日本で反延命主義が広がった契機を昭和天皇の崩御とする。毎日、病状が報道されることに疲れたとする。
勉強会では新型コロナウイルス感染症の事例も紹介した。医師は高齢患者の家族に「人工呼吸器の治療をしても肺自体がなかなか良くならなかったり、悪くなった場合に立ち上がるのがかなり難しくなったりする」と説明した。家族は「健康で戻れんだったらいいけど、そうでないとしたら」として人工呼吸器を望まなかった。
この健康で戻れるのならばいいが、障害が残るならば治療を望まないという発想は林田医療裁判(平成26年(ワ)第25447号損害賠償請求事件、平成28年(ネ)第5668号損害賠償請求控訴事件)の長男に重なる。林田医療裁判の患者は車いす生活になるが、病院から退院を示唆されるまでに回復し、リハビリをしていた。ところが、長男は「延命につながる治療を全て拒否」した。しかも、患者の経管栄養の流入速度を速めた。
死なせたいという発想を反延命主義という形で明確化したことは大きな意義がある。この種の発想は個人の自己決定権として主張される傾向がある(林田医療裁判の治療拒否は、患者本人の意思ではなく、立正佼成会附属佼成病院からキーパーソンとされた患者の長男の意思である点で問題であるが)。一個人の選好であるならば、それを否定する方が逆に個人の自由に対する価値観の押し付けのパターナリズムと批判されかねない。しかし、実態は反延命主義という価値観の押し付けである。パターナリズムは反延命主義の方である。
実際、ミニ勉強会では延命治療をしない方向でしつこくしつこく同意を求める運用がなされているとした。そうであるならば逆に患者の長男が「延命につながる治療を全て拒否」するならば、本人の意思推定もせず、他の家族に確認することもしない。反延命主義に即した意思表示は自己決定権として尊重し、反延命主義に反する意思表示はしつこくしつこく翻意を迫る。それは自己決定権の尊重ではない。
質疑応答の中で反延命主義の論理は「自然死が日本人らしい死に方」と日本人らしさから根拠付ける傾向があると説明された。1990年代からゼロ年代は日本的なシステムが凋落した時期である。その時期に日本人らしさを拠り所にすることは滑稽である。反延命主義も昭和の精神論根性論と同じく世界的には恥ずかしい発想になるのではないか。
世界的に見ると『LIFESPAN ライフスパン 老いなき世界』や『ホモ・デウス』がベストセラーになっている。不老長寿を目指そうとする意識が高まっており、延命を忌避して「死を受け入れる」発想に馬鹿らしさを感じるほどである。反延命主義を批判する立場でも延命という言葉が人々から嫌悪されているという事実認識に立っているが、世界の潮流とはギャップがある。日本で延命を忌避する思想が広がっているならば日本は周回遅れになる。その意味で反延命主義が日本人らしさを根拠として広まっているとの説明は納得できる。
質疑応答の中で、どちらかと言えば男性医師が延命せずに死なせようとし、女性看護師がそれに批判的でケアをしようとする傾向があったと説明された。林田医療裁判でも佼成病院の主治医は男性であった。佼成病院の主治医は林田医療裁判で治療を拒否した長男を「私の理念を理解した」と語っている。林田医療裁判を取り上げた第12回「医療界と法曹界の相互理解のためのシンポジウム」では主治医一人が判断して対応するのではなく、チーム医療の多職種で今後の対応を検討すべきだったとの意見が出た。
Comments