エリザベス朝イングランドの探検家で詩人のSir Walter Raleighは「What is Our Life」という詩を書きました。
What is our life? The play of passion.
Our mirth? The music of division:
Our mothers’ wombs the tiring-houses be,
Where we are dressed for life’s short comedy.
The earth the stage; Heaven the spectator is,
Who sits and views whosoe’er doth act amiss.
The graves which hide us from the scorching sun
Are like drawn curtains when the play is done.
Thus playing post we to our latest rest,
And then we die in earnest, not in jest.
人生とは「情熱の芝居」で始まり、「死は本物であり、演技ではない」で終わっています。
近年、「死の自己決定」や「死ぬ権利」といった概念が広がりつつあります。これらの概念は、人が自らの死をどのように迎えるかを選択する権利を強調しています。安楽死や尊厳死の選択肢を求める声があります。しかし、「死は本物」であるという現実を忘れてはいけません。どれだけ理性的に死を計画しても、死は真実の終わりです。
人生を芝居に重ねる厭世観は、この時代に見られるものです。同時代人のWilliam Shakespeareは『お気に召すまま』(As You Like It)で「世界は舞台、男達も女達も役者のようなもの」と書いています。
All the world's a stage,
And all the men and women merely players;
They have their exits and their entrances,
And one man in his time plays many parts,
His acts being seven ages.
これは世界劇場という思想です。「世界劇場の考え方について最も重要なのは、それが、人間の主体性に対して疑問を投げかけるものだという点である」(貴志哲雄『シェイクスピアのたくらみ』岩波新書、2008年、74頁)。
人間は自由意志を持ち、自らの意思で行動しているように見えますが、実際には様々な外的要因や環境によって行動が制約されているという見方が含まれます。ここにも自己決定の危うさがあります。私達は自由意志を持ち、自己決定していると思っていますが、実はそうではないかもしれません。自己決定の概念は現代社会において非常に重要視されていますが、その限界を認識することも同時に必要です。
私達は日常生活の中で多くの選択をしていますが、その選択は本当に自分の意志によるものなのでしょうか。家庭環境、教育、社会的な影響、メディアの情報など、さまざまな要因が私たちの選択に影響を与えています。このような背景を考慮すると、自己決定は完全に自由なものではなく、ある程度は制約されています。
自己決定権は本来、患者を守るためのものですが、日本では正しく使われていないケースがあります。医師が安易に自己決定権を使って責任を患者に押し付けたり、責任逃れに利用したりすることがあります。政府の医療費削減や尊厳死、安楽死の推進政策によって、国民は治療中止の自己決定を強いられる危険があります。
自己決定の重要性を強調し過ぎると、自分の意思とは無関係な要因による失敗や困難を自己責任として過度に背負い込んでしまう危険性があります。自己決定の限界を認識することは、自己理解を深め、他者や社会との関係性をより良くするための第一歩です。自分自身の選択が完全に自由であるとは限らないことを理解することで、他者に対する理解や共感が生まれ、より調和の取れた社会を築くことができるでしょう。
自己決定の重要性を認識しつつ、その限界も理解することで、より成熟した個人としての成長が期待できます。そして、このような視点を持つことは、私達の生き方や社会との関わり方においても大いに役立つでしょう。
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