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執筆者の写真林田医療裁判

治療の不開始・中止に対する一考察

更新日:2020年8月10日

佐伯仁志「治療の不開始・中止に対する一考察」法曹時報第72巻第6号(2020年)は林田医療裁判(東京高等裁判所平成29年7月31日判決、平成28年(ネ)第5668号損害賠償請求控訴事件)の参考になる。


「終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン」は射水市民病院の人工呼吸器取り外し事件を踏まえて策定された(2頁)。林田医療裁判の判決はガイドラインに基いて判断した建前になっている。しかし、射水市民病院事件を踏まえて作成されたという経緯を考慮した当てはめになっているか疑問がある。


長女側は林田医療裁判で射水市民病院事件後の病院長の言葉を引用した。「呼吸器を外すことがいかに残酷な行為であるか。人間息ができないことほど苦しい状況はない。水におぼれる状態を想像してほしい。せめて心臓が動いている間くらい、酸素を送ってあげよう。生命活動を支えるもっとも重要な物質である酸素だけは、命のつきるまでは送り続けよう。あとわずかの時間を、出来る限り患者の尊厳を保つよう心を込めてケアしながら、大切に見守ろう。命の灯が自然に消えるのを一緒に待とうと家族を説得してほしい。どうせ死ぬ、助からない、だからといって私たちが死ぬ時間を決めてよいのでしょうか」(中島みち『「尊厳死」に尊厳はあるか、ある呼吸器外し事件から』岩波書店、2007年、119頁)。


「プロセスガイドラインは、刑事事件となった事例が医師が一人で判断してしまった事例であるという認識のもとに、多職種のチームで治療中止の判断を行うことを求めた」(3頁)。林田医療裁判判決は、この点の考慮が抜け落ちている。複数の家族から確認しておらず、キーパーソンの意見が家族の意見を集約したものであることも確認していない。医療従事者がチームで判断した形跡もない。


本論文は終末期の混同も指摘する。「治療中止は、治療を受ければ相当期間生存することができ、必ずしも終末期にあるとはいえない場合にも問題となる」「治療を中止すると患者が短期間に死亡する場合も『終末期』に含められることがあるが、治療中止を行う時点で終末期にある場合と治療中止によって終末期になる場合とは明確に分けて論じられるべきである」(5頁)。患者が死亡したという結果から逆算して患者が死亡した直前を終末期と判定することは誤りである。


本論文は医師側が治療拒否に安易に従うことを戒めている。「治療拒否権を認めたからといって、治療を拒否しないように説得することが権利侵害として否定されるわけではなく、むしろ説得することが医師の義務として求められている」(25頁)。これも林田医療裁判の論点になる。


本論文は「早い段階で生命を終わらせる選択の方を促進してしまうような法理論は、法律学の責任において、明確に否定されなければならない」(辰井聡子「治療不開始/中止行為の刑法的評価 『治療行為』としての正当化の試み」明治学院大学法学研究86号、2009年、65頁)に賛同する立場で書かれている。これは結構なことである。


一方で、法律論はどうしても「治療拒否の意思表示があった場合に治療しないことは認められるか」という問題設定で議論されることになりがちである。現実は治療拒否の意思の有無が問題になることが多い。形式的な意思表示があったとしても、それが本当の意思と言えるものか、情報の非対称性がある中で誘導されたものではないかが問題である。


林田医療裁判判決は明確に反対しないから賛成と決めつけた。公立福生病院透析中止事件で公立福生病院は透析再開の希望を真意ではないと切り捨てている。「早い段階で生命を終わらせる選択の方を促進してしまうような法理論は、法律学の責任において、明確に否定されなければならない」は意思表示の認定の段階から考える必要がある。


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