公立福生病院事件を考える連絡会が2021年7月17日、「シンポジウム 公立福生病院事件はなぜ起きたのか!?『反延命主義の時代 透析中止・人生会議・パンデミック』の出版にあわせて」を開催した。公立福生病院透析中止事件がはらむ問題について訴え、多くの方に考えてもらう企画である。林田医療裁判を考える会も協賛している。
このシンポジウムは会場参加とZoomを併用する。会場は当初、専修大学神田校舎を予定していたが、7月12日から東京都に緊急事態宣言が出され、利用できなくなった影響で、たんぽぽ社に変更された。Zoomの参加者は87名であった。
最初に公立福生病院事件裁判弁護団の内田弁護士から裁判状況の報告がなされた。続いて4人のプレゼンターが話した。
堀江宗正(東京大学大学院教授/生命倫理・死生学)「反延命主義とは何か」
『反延命主義の時代 透析中止・人生会議・パンデミック』の序章を抜粋して説明した。コロナ禍で命の選別が進行している。命への危機感が麻痺している。「高齢者はもういいでしょ」「これ以上、生きていても仕方がない」という風潮が出ている。医師が治癒後も障害が残ると示唆して患者に延命拒否を答えるように誘導している。
高草木光一(慶應義塾大学経済学部教授/社会思想史)「公立福生病院事件を通して」
反延命主義の時代と言えるか。反延命主義の時代はどのようなスパンで見るか。宇宙開発を、いずれ地球を捨てる出発点とみる。環境問題は地球を捨てる意思と地球を守る意思のせめぎあい。地球を捨てる際には選別が行われる。新しい環境に適応する人間を造る改良が行われるのではないか。反延命主義にどのように対抗するか。延命という概念の再定義が必要になるのではないか。
深い鎮静は、意図的に回復させた意識を回復するプログラムを持たないから本質的に安楽死と変わらないのでないか。
重要なことは患者の立場からどのように医師を教育していくかである。患者の側から声をあげていく。このシンポジウムも医師教育の機会である。
市野川容孝(東京大学大学院教授/医療社会学)「ヨーロッパの状況と回帰するナチズム」
ヨーロッパには医療における嘱託殺人や自殺ほう助を合法化する動きがある。スペインでは左派政権が安楽死法を制定した。極右政党Voxは安楽死法に反対し、憲法違反として憲法裁判所に提訴した。もっとも、右翼左翼の枠組みで積極的安楽死への賛成・反対を機械的に導き出すことは妥当ではない。リベラルの立場から人間の選択肢を狭めるものと積極的安楽死を批判的に問い直すこともできる。
小松美彦(東京大学大学院客員教授/科学史・生命倫理学)「反延命主義の根源―二つの生命概念」
優生思想・反延命主義の本質・根源とは何かを考え、公立福生病院透析中止事件をもたらした構造を把握する。延命は医師が行っていた当たり前の行為であった。1970年代に否定的な意味が加わった。脳死者や植物状態の患者の延命を否定する文脈で使われる。日本では左派が反延命主義の突破口を開いた。
ジョルジョ・アガンベンはコロナ禍の中で人々が命を守ることを優先し、善く生きることを追求せずに生きるだけになったと嘆く(ジョルジョ・アガンベン著、高桑和巳訳『私たちはどこにいるのか?政治としてのエピデミック』)。しかし、命は善く生きることの前提である。生き方に優劣をつけ、だから命を絶つことを進めることが反延命主義の本質になる。二つに分けることはできない命と生き方を分けたことが問題である。
林田医療裁判を考える会から市野川さんの話に対して以下の質問をした。「左派が積極的安楽死を推進し、右派が反対しているという点は興味深い話でした。ナチズムの安楽死は社会全体の為に個々人を犠牲にするという全体主義です。これに対して左派の安楽死は少なくとも建前は個人の意思決定の尊重に依拠しています。これをナチズムの延長線上でとらえることができるでしょうか」
これに対して以下の回答が提示された。ナチのプロパガンダ映画『私は告発する』は個人の意思決定の尊重という筋で安楽死を正当化しようとした。現代の左派の個人の意思決定の尊重という名目で安楽死を正当化する見解の中に潜むナチズムを批判していくべきではないか。
この質問の背景には、個人の選択の自由をベースに安楽死を主張する人々に対して、ナチズムと批判しても噛み合わず、レッテル貼りと反発されるだけではないかとの問題意識があった。そこに潜むナチズムを批判していくという点は成程と感じた。
会場からは「安楽死は医師が気に食わない人物を死なせることを正当化することになるのではないか。安楽死は人間選別になるのではないか」との感想が寄せられた。
最後にパネリストからまとめの発言がなされた。
堀江「ヨーロッパの右派は宗教と結びついている。プロテスタントは積極的安楽死を許容しがちであるが、カトリックは厳格である。しかし、右派にも経済的功利主義的な立場もある。日本の右派は経済的功利主義が中心で、左派は水俣病や福島原発事故など経済優先に押し潰される命に抗してきた」
高草木「医療現場にはどうせ死ぬんだからという発想がある。それが蔓延しているのではないか」
市野川「死刑制度に問題意識を持ってほしい。日本が死刑制度を存続させていることはおかしい」
小松「全体を重視する思想、命よりも生き方を重視する思想を持っていると、反延命主義や優生思想に傾く。これは右派でも左派でも生じる」
林田医療裁判を考える会の質問と関連するが、反延命主義と右派左派などの思想的な立ち位置の議論が興味深い。管見は伝統的な右派左派の対立軸では議論できないと考えている。対立軸は個人を第一に考える個人主義か全体の利益を考える全体主義かである。全体主義は全体の利益のために個人に犠牲や負担を強要することになる。
「真の退廃とは、多数のために力のない少数者が犠牲になること」(村上龍『半島を出よ』)。特に日本は全体主義的傾向が強く。個人に我慢や負担を押し付けがちである。それ故に管見は右派左派問わず全体主義に反対する。社会全体の利益や、林田医療裁判の患者の長男の意思のように他者の意向で過少医療が行われることは容認できない。
一方で全体主義を批判するだけでは、個人の自己決定の尊重をベースに安楽死を望む立場を批判しきれない。林田医療裁判の問題意識としては、本人の意思ではなく、患者長男の意思で治療が拒否され、死に至るような事態をなくすことである。それ故に誘導されたものではなく、真に本人の意思で結論を出した場合は(そのような意思決定が現実に可能かは大いに疑問であり、仮定の議論になるが)、優先順位の高い問題ではない。
それでは安楽死を心底から希望する人に安楽死を認めることが良いことなのか。ここは小松さんの指摘が参考になった。個人主義の立場でも命よりも生き方を重視する思想を持っていると、「善い生き方」を押し付け、「善い生き方」ができない人の安楽死を正当化することになるのだろう。
堀江さんが言われたように日本の左派が水俣病や福島原発事故など経済優先に押し潰される命に抗してきた実績があることは確かである。この左派の活動は敬意に値する。しかし、日本の左派は水俣病や福島原発事故のように一つの問題で多数の被害者が出る集団的問題には対応できても、個別的問題については反応が鈍い。もっと言えば冷たい。個別的問題を社会的問題よりも一段低く見る傾向がある。そのような左派に果たして依拠することができるか。それでも、左派に依拠すべきと考えなければならないだろうか。
延命を嫌悪する反延命主義への批判という視点は、経済重視の価値観の中にも存在する。たとえば、堀江貴文『120歳まで生きたいので、最先端医療を取材してみた』という書籍がある。これは延命肯定である。日本の反延命主義は自然に委ねるという前近代的価値観に依拠している面があり、経済効率重視の立場も反延命主義の対抗価値になるのではないか。
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