林田医療裁判の東京地方裁判所判決(平成26年(ワ)第25447号)は長女側が積極的に異論を唱えなかったことを病院が意思確認しないことの正当化理由としている。しかし、そのような同意論は20世紀的な時代遅れである。形式的な同意や拒否の有無ではなく、経緯や背景、個人の置かれた場の構造が問題になる。以下の「性行為と同意」の議論は消費者問題や医療問題にも該当する。
「同意は『ある』か『ない』かではなく、グラデーションを保ちつつも、何らかの形で存在しているといってよい場合がほとんどである。現実には、同意の中に、様々なものが混じっている」「同意それ自体をいくら分析しても、答えは出てこない」「『同意』するに至った事情に光を当てる必要がある」(金山直樹「性行為と同意 格差構造下における自由と強制」法学研究92巻9号、慶応義塾大学、2019年、16頁)
「実際の裁判において、YがXの同意があったと主張するのは、訴訟戦術として、必ずしも適当とはいえないことになる。なぜなら、そのような主張は、不法行為上の故意がなかったと言うためであろうが、格差構造から発生する相手方配慮義務の存在すら知らなかったことを自白するようなものであり、かえってYの過失を推認する材料になってしまうからである」(37頁)
この論文は判決の引用で判決を言い渡した裁判官の名前を出していることが特徴である。判決の言い渡しは公務であり、その責任から逃れられない。顔の見えない公務員として逃げさせず、責任を持たせるために意味のあることである。この論文は性行為が立場を利用した強制的なものであったかをテーマにしている。裁判官の価値観、倫理観が特に問われる分野である。
日本では不当判決に対して大きな批判が寄せられても、それを書いた裁判官への関心は高くない。その結果、問題ある判決を書いた裁判官が別の分野でも問題を繰り返すことが起きている。現実に北本いじめ裁判と最高裁裏金裁判の裁判官が同一(東京地方裁判所民事第31部、舘内比佐志裁判長、後藤隆大裁判官)ということがあった。
北本いじめ自殺裁判では同級生から「きもい」と悪口を言われ、下駄箱から靴を落とされ、「便器に顔をつけろ」と言われるなどの事実があった。ところが、東京地裁判決は「一方的、継続的ではなく、自殺の原因になるようないじめがあったとは認められない」と、いじめを否定した。市民感覚と異なる発想が支配していることに憤りを覚える。
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